昭和五十七年二月二日 朝の御理解

x 御神訓 ー信心の心得ー 「信心は家内に不和のなきがもとなり。真の道に入れば第一に心の疑いの雲を払えよ。真にありがたしと思う心すぐにみかげのはじめなり。」


 昨夜お祭りがすんで文男先生が私の部屋にやって来てくれました。して今日の月次祭の模様をいろいろ聞かせてもらいましたが、昨日は三井教会で松影会の新年の集いがございました。その事も、先生、出席しておりましたから、その模様をいろいろ聞かしてもらいましたが、東町教会≪東久留米教会≫の田中という女の先生ですが女の先生のお話を頂いたと。なかなかいいお話だった、という話でしたが、最後に先生が言われた事は、兎に角人が助かる、という事はまずは自分自身が助からなければならん、という事を思います、という事だったそうですね。
 これは金光様の先生だけじゃないです。もう金光様の御信心を頂かせて頂く者は、どうぞ嫁御が助かります事、息子が助かります事、というがそうじゃないです。御神縁を頂いたあなたがまず助かる事なんです。私はもう本当に、金光教の信心はそこに極まった、と思いますね。人じゃないです。自分自身が助かる。人が助かるというても、ね。まずは自分自身が助かる事だと。私はその一言を聞いてハハア成程よい話じゃったろなあ、と思った事でございます。
 また、昨夜の若先生のお話をかいつまんで先生、してくれました。兎に角、あの、合楽理念はいわゆる助かりの理念、と言われるが、もう最高の助かりの理念だというようなお話をなさいました。という事でございました。ね。ですからね、自分自身が助かる為の手立てがもう、それこそ縦横無尽に合楽理念には説いてあるとですよ、だからね、あのう、それを本気で、いわば助かろうと、家庭に不和の無きが元、という事も、真に有難しと思う心すぐにみかげの始め、と。真に有難いと思う心はどういうような信心をしたらその、真に有難いという心が起こってくるのか。
 為にはまず真の道に入ればまず疑いの雲を払え、とおっしゃるが、今日私が皆さんにお話する事をですね、あの、ハア、そうだろう、と頂かれる事なんです。『私、今日、御神前でえー、今日のお話を、どんなお話させて頂いたらよいだろうか、と思うたら、z「竹輪」を一本頂いたんです、ちくわ。そしてそれにかなづかいをするようにちくわ、と書いてある、竹の輪と書いてある。ね。』竹の輪と書いて、そして一本のおいしそうな竹輪を見せて頂いたんですけども。そして今日の、この教典を開かせて頂いたら大体は「信心の心得」というここだけを頂いたんですけども。
 ここだけじゃなんだから、ま、三個条を読んでもらいましたけれどもね。その三個条の中にあっても家庭に不和の無きが元という事は、ね。家の嫁御が信心になってくれると、家(うち)はほんとこっとりとん言わんとばってんなんてん思うとるような事では駄目です。まず自分自身が助かれば、嫁御じゃないです、息子じゃないです。家内でもなからなきゃ主人でもないです。ね。そういう中にあっても自分が助かっておれれる、という事なんです。ね。
 そしたら必ず不和の無きが元、のというおかげは受けられます、です。嫁御が信心頂いてくれると家はええばってん、といったようなこっちゃないです。兎に角合楽に御縁頂いて日々お参りをしておるあなたがね、助かる以外にないです。
それが家庭に不和の無きが元、という、その元はそれです。私が助かる、という事です。ね。いうならその、竹輪というかね。竹の輪と書いて、ま、竹というのはここでは素直と頂きますから、素直な心、いわゆる和賀心の和の心。
 あなたがまず素直になる以外ないです。あなたが本気で、ね、和賀心にならせて頂こう、と意欲する事、先ず私自身が助かろう、と思う事です。これが私は、お道の信心の、いわゆる心得だと思うです、ね。あれが助からんなんから、息子が助からんなんから、と、まず私、教えを頂いとるあなた自身が助かる事です。田中先生が言われた、という、もう問題は私自身が助かる以外にはない、ね。だからそこまでは、ね。やっぱ金光様の先生でもするからには感じますですね。
 こりゃあ自分が力を頂かなきゃ出けん。自分が助かるより以外ない、という事は、皆が、そこまでは感じつくですから、皆さんもそこまでは感じつかないかんです。ね。もう自分が助かる以外にはない、と感じつく。ところがね、私は多くの金光教の教師信者を問わず、そこまではわかっておるんだけれども、どうすりゃ和賀心になるか、どうすりゃ素直になれるか、どうすれば、ね。自分が助かるか、という手立てがいわば、何ていうでしょうかね、いろいろに、これ、と決め手がない、という事です。ね。
 そこまでは感じついておられるんです、誰でも。自分が助かる以外はない、と。だからここでは皆さんがもしそこに気付かれたらですね。もう日々の合楽理念を元にされたら、絶対、あなたが助かりあなたの心の中に和賀心が生まれる。そういう、なら完璧とは言わなくても、私、あのう、竹輪のお知らせは昔、頂いた事があるんですけども、神様が向先を見せて下さるです、その気になりゃ。もう本気で和賀心になろう、本気で私が助かろうという気になっての精進をするとね。
 いうなら神様は向う倍力の徳を授ける、とおっしゃる。本当の事に、神様が一番喜んで下さる事に心を決める、決心するのです。和賀心、どういう中にあっても喜べれる、どういう中にあっても自分の心が豊かになっていけれる心の状態を目指す、その目指す手立てが合楽理念に説かれるわけです。ね。だから人が助かる為じゃない、自分自身が助かる事の為に、神様が一番願っておられる、いうならば事を、私共が感じついて、その手立てを願おうとするのですから、神様が喜んで下さらんはずがありません。
 その喜びが私共に返って来た時、初めて真に有難しと思う心が生まれてくるのです、ね。真に有難しと思う心というのは神様が喜んで下さる、その喜びが私共に返ってくる喜びなんです。真に有難しと思う心すぐにみかげの始めなり、ね。いわゆる私はその、田中先生が言われた、という、私が助かるより他にはない。したら昨日若先生がお話した、という。
 兎に角合楽理念は助かりの理念と言われるが、もう最高の助かりの理念だと。誰でもね、金光様の信心を頂いて少し熱心になって、特にお道の教師で人の難儀が助けたい、とこう思うけれども助けたい、と思う前にまず自分自身が助からにゃ嘘だなあ、とわかってくるんです。確かに、わかってくるけども、んならどうすりゃ自分が助かるか、という手立てがないです。
 和賀心和賀心というとるばっかりで、どういうような生き方をすれば和賀心になれるか、という事が合楽理念には、いうなら縦横無尽に説いてあるのですから、それを行ずる以外にはない。問題はね、いわゆる合楽に信心の稽古に通うておる方の心掛けはね。もう兎に角和の心、竹輪の心になろう、と本気で精進する事です。んならどういう精進の手立てがあるか、と、いうと、それを容易う、例えば土の心であり、天の心であり、地の心であり、日月の心であり、という、その心をです、いうならば具体的に、その気になれば誰でも行じられるように説いてある。
 問題は私が助かろう、私自身が本気で助かろう、という気になる以外にはないです。ね。それが私は信心の心得だと思います。本当に、こんな幸福な事はない。そういう心になったら、どういうような、ならあり方になったら、自分が助かるか、という事の手立てが合楽では説かれるのですから、ね。それをいよいよ本気で頂く事です。神は向う倍力の徳を授ける。十の信心が出来れば、ね、二十も三十ものおかげ下さる。
 私共が本気で自分自身が助かろう、と思う。その手立てを例えば、ね。出来る、出けんは別として本気でその気になって、その精進をさしてもらうと、その精進がいかにも出来たかのようにして心に喜びを下さる、和の心を下さる。いつの間にか素直にならせて頂いけれる、ね。そこには神様がね、信心も出来ませんのに、という事。信心も出来ませんのに、このようなおかげを頂いて、というようなおかげが頂けるのです。
 今日は信心乃心得という所を頂いて、この三個条のみ教えを聞いて頂いた。真に有難しという心にもなりたい、家庭に不和の無きが元と言われるから家庭が円満になったらさぞよかろう、と思う、ね。その元は何と言うても、自分が本気で助かろうという、いうなら、一心発起する事です。そこには自分の助かる手立てが、ね、説かれてありますから、合楽理念には。その合楽理念を本気で行じる事、以外にはない、という事になりますですね。どうぞ